容疑者Xの献身を見て
容疑者xの献身を見た時、もうめちゃくちゃに泣いた。
堤真一の演技は素晴らしい。素晴らしいが、それだけではない。
人生に絶望していた男がたった一つの出来事に救われてその為だけに全てを捧げようとしていたのに結果出来なかったところが痛ましくて、リアルで、つらくて泣いた。
でも映画の最後で、福山が「石神はそれほどまでに人を愛することが出来たんだ」というセリフを放ち、それに対して柴咲コウが「石神は、花岡靖子に生かされていたんですね」というシーンでん?となった。
本当にそうか?
本当に石神は花岡靖子を愛していたのか?
多分違うと思う。
石神は根本的に愛を理解していない。
では花岡靖子に懸想していなかったか。
懸想していただろう。それは間違ってない。というか懸想していないのに殺人の隠蔽を手伝い、あまつさえ自分も殺人を犯すなんて花岡靖子の事を想っていないのにその行為をしたとしたら怖すぎる。
数学のこと以外興味が無く、大学院でさらに数学を学ぶはずだった若い彼は親の介護でその道を断たれる。きっと同じ大学の者に聞いたり、恩師に頼ったりすればそこから研究の道へ復帰する術はあったはずだ。彼にはその道筋が見えていなかっただけで。
研究者であれば誰かから存在を認められたり、自分の存在意義なんて考える暇ないくらい数学にのめり込めたはずなのに、彼に与えられたのは毎日毎日到底レベルの合わない生徒に聞いてすらもらえない授業をするだけ。いてもいなくても同じ、きっと名前を呼ばれることもなく、会話をする仲間もいない。なんのために生きているのか分からない。存在意義を、存在理由を、存在価値を証明できない。だから死を選んだ。
そこに花岡靖子とその娘が来た。
美しい、美しすぎる。
松雪泰子の美しさはもちろんだけど、それだけじゃない。女手一つの(しかも美人の)家庭なのに、隣の家(しかも男の一人暮らし)に挨拶に来るその無防備さ。挨拶をして自分の弁当屋のチラシを入れることができるその傲慢さ。そして躊躇いなく石神の名前を呼ぶその純粋さが眩しい。
私が1番心に来るのは、花岡靖子の娘が橋の上から石神に手を振るシーンだ。
躊躇いなく中年の冴えない石神に明るく声をかける純真さ。友人に「誰?」と訝しげに聞かれてもなんの衒いもなく「隣の人!」と答えてくれる裏表のなさにきっと救われたはずなのだ。
隣の家の人。
隣に住んでいる、ただそれだけの理由で名前を呼び、声をかけ、存在を認めてくれる。
存在意義がないと自殺直前まで行った男に対してこの待遇はあまりにも優しすぎた。
隣に越してきた美しい人、そして心まで美しいその人を好きにならないわけがない。
たとえ美しいその人が殺人を犯したとて、嫌いになるわけがない。
だって自分はその人に命を救われているのだから。
石神は自分の見た目は気にしないくせに美しいものに関心がある。
四色問題もそうだし、湯川と山を登った時「この景色を美しいと思うことができる」とも言っていたので景色についてもある程度認識できるくらいの審美眼はあるらしい。
コンピュータを使って塗られる四色問題は美しくない。手で塗られる四色問題は美しい。コンピュータで行う方が効率的で、真っ直ぐ最短距離を行くのが数学者であるはずなのに石神は非効率な手での証明を行なっている。
美しいものは、美しいままに。
決して汚さず、美しいものとそうでないものは同じにはならない。
四色問題と同じで、美しい花岡靖子と美しくない自分自身は決して同じ色にはなり得ないのだ。
だから花岡靖子が人を殺した時、自分が罪を被ることを決めたのだと思う。
美しい人が美しくない罪を被る必要などないのだから。
むしろ、自分はそのために存在していたと思うかもしれない。
自分が泥を被れば花岡靖子を守れる。花岡靖子とその娘はずっと美しいままでいられる。
“石神という男の人生を踏み台にして”?
「なぜ彼女にそこまでする?」
「何があったんだ」
「何の罪もない人を時計の歯車にした」
違う違う、全然分かってない。
石神に自己犠牲なんて自覚が芽生えている訳がない。踏み台になったとすら思っていないはずだ。
石神が罪を被れば花岡靖子は美しいままでいられる。つまりそれは、石神自身の行為によって、石神が花岡靖子の美しさを構成する一部になれるということ。美しさを構成する部品の歯車になれるということなのだから。
美しいものに焦がれ、救われ、そしてどうしようもなく自分を美しくないと思っている人間が、断片的でも自分が美しさの一部になれるチャンスがあるなら間違いなく行動する。数学は、美しさは、花岡靖子は彼にとって間違いなく尊いものだ。俗っぽい言葉でいう神様よりも上の。存在価値が無いことに絶望した男が、花岡靖子の美しさのために死ぬという理由を得ることがどれだけ嬉しかったか。花岡靖子の美しい人生の歯車になれることがどれだけ誇らしかったか、美しい人にはそれが分からない。
いつまでも若々しく、研究に没頭できて、生徒にも慕われ友人もいる湯川には絶対に理解できない。
信念の元に生き、正義感に燃え、性別を理由にお茶汲みを強要された時はムッとするような一刑事としての自負を持っている内海とも分かり合えない。
美しい人はその美しさに無頓着だから。
もちろんホステスだった花岡靖子が自分の美貌に無自覚なわけは無いのだけど、だからこそ花岡靖子は不思議に思ったのだろう。
「なぜここまでしてくれるんですか」
美しいからに決まっている。
自分が持ち得ない、焦がれてやまない物を持っていてなおそれに無頓着な女。
その魂の美しさこそが尊いものだと本人は知らないから、何も考えず石神の所へ来て罪を懺悔したりするのだ。
台無しだ。
石神の努力も、殺人も、美しいものの一部となって死ぬ計画も全部。
花岡靖子が罪を告白したら、罪人になったら彼女の人生は美しく無くなってしまう。娘は学校で遠巻きにされるだろうし、工藤は間違いなく花岡靖子から離れていくだろう。
殺人現場を見られた時に泣きながらこぼしたはずの、つまりは1番の本音であるはずの「娘を巻き込みたくない」「お母さんを刑務所に入れたくない」というセリフがそのまま現実になる。最悪だ。
石神には分からない。
どうして花岡靖子が(顔面ではない)自分の美しさに無頓着なのか、どうして美しいままでいてほしいのに自分の位置まで堕ちてきてしまうのか。
美しい花岡靖子と美しくない自分。
決して同じ色にならないはずなのに、自分のせいで花岡靖子が美しくない色になる。
まるで四色問題の証明が失敗したみたいに。
美しいものに焦がれた男が、美しいものの一部にもなれず、ましてや美しいものを醜いものにしてしまう。その絶望こそ、あの「どうして…」なのだ。
美しい人には分からない。
美しさがいかに尊くて、自分がどれほど渇望して、どれだけ救われたかなんて。
石神の人生はめちゃくちゃだ。
絶望から救われたと思ったらまた新たな絶望に襲われて。
でも美しさって言うのは傲慢で、その暴力性に無自覚だから仕方ない。
そんな無力さに襲われるからこの映画は何回見ても泣きます。
石神に救いあれ。